こんにちは。ミロの羅針盤・館長のSenriです。
今日は日本彫刻界の重鎮で、美術教育にも大きな足跡を残された、故・佐藤忠良先生についてお話してみようと思います。
佐藤先生は私が学んだ東京造形大学に教えに来てくださっていて、お会いする機会がありました。
その時のエピソードも交えて、彫刻家佐藤忠良の作品や人柄についてご紹介します。
この記事を読めば、
私が実際に見た佐藤先生について
佐藤忠良の作品について
佐藤忠良の美術教育について
佐藤忠良の言葉(著書より抜粋)
彫刻家佐藤忠良の足跡について
知ることが出来ますので、是非最後までお付き合いください。
彫刻家佐藤忠良の精神

彫刻家佐藤忠良という人を、ご本人の残された言葉などから改めて振り返ってみると、戦後日本の彫刻界に、大きくて確かな指標を打ち込まれているのがよくわかります。
それは私が学生時代に目にした佐藤先生の振る舞いや、大学にあった雰囲気の中に存在していて、私自身も確かにそこから出発したのですが、不詳にもそれを真剣に実践せず、怠慢に呆けて長い年月が過ぎてしまった、というのが正直な気持ちです。
しかし、教育というものの有難さか、私の「ものつくりの核」になっているものは、この時に得たものです。
彫刻家佐藤忠良の教え 芸術の完成には人格の確立が必要
それは一言で言うと、人格の確立が芸術の完成に欠かせないという教えです。
遠大な理想のようにも聞こえますが、当たり前のことが出来なくて何が芸術か、というごく普通の問いかけでもあります。
今般、2冊の著書、「若き芸術家たちへ ~ねがいは普通~」中央文庫と「触ることから始めよう」講談社を取り寄せて精読してみました。
この二冊だけでも先生の精神がよく分かります。
改めて、自分への恥ずかしさで全身が痺れるのを感じ、背骨に金槌で芯を打ち込まれる思いがしたものでした。
汗をかけ 手紙を書け 恥をかけ
佐藤先生がよく、「汗をかけ、手紙を書け、恥をかけ」とおっしゃっていたので、今回私も大きな恥をかけて良かった訳です。
読後の、いかにも滝に打たれるような感じは、佐藤先生の持っていらっしゃった、「品格」であったと真に納得するのですが、自分のことは棚に上げ、今の時代にこそ佐藤先生の精神に学ぶべきだ、と思ったりするのでした。
時代を映す存在
佐藤先生の存在というのは、各人あるいは時代を映す鏡のようなものではないのか。一つの思想を超えて何か大きな存在であったように思います。
冗談好きで、ご自身も含めて「ものつくり」にかかわる人たちのもつ自己顕示欲を否定せず、「普通」が大事だよと言われる、飄々とした姿に親しみを感じる先生です。
何となくですが、彫刻界のトップにこのような人を押し上げた、戦後の日本というのは、やはり良かったのではないかという気がします。
ここまで書けば、私としては心安らかな気がするので、後はゆっくり進めていこうと思います。
彫刻家佐藤忠良 東京造形大学でのエピソードより
まず、少々長くなりますが、私が学生の一人として体験したエピソードをご紹介します。
東京造形大学の創立メンバー
改めてですが、私が学んだ、東京造形大学の彫刻科には、佐藤忠良先生がいらっしゃいました。
佐藤先生は、大学の設立メンバーなのです。
太平洋戦争における日本敗戦後、捕虜兵として過ごした、3年間のシベリア抑留生活から帰還されたばかりの佐藤先生のもとへ、桑沢洋子さんが連絡をしてこられて、

「自然をよく観察する写生を教えてください。」
と言われたそうです。

後に、桑沢デザイン研究所と東京造形大学を設立する桑沢氏ですが、当時は小さな洋裁学校をしておられた。
桑沢デザイン研究所
https://www.kds.ac.jp/about/history/
東京造形大学
https://www.zokei.ac.jp/
創立時の東京造形大学 手作りの出発
東京造形大学設立の時も、八王子の山の中に、教師と学生たちが、何もかもを手作りしたそうです。
さて、私が入学したのは1986年。佐藤先生が名誉教授に就任された年です。
最初の授業の思い出
1年生の最初の授業に佐藤先生が来られて、お話をされたときのことを覚えています。
財布の思い出
「ずいぶん貧乏もしたが、今はまあまあ売れるようになったよ。」
と言われながら財布を取り出され、中のお札を見せるそぶりをされました。
ちょっと度肝を抜かれましたね。
(当時70代半ばの佐藤先生は、日本の具象彫刻界の重鎮としての地位を確立しておられました。)
ヘンリー・ムーアとの邂逅のお話

それから、その年の2月(つまりこの最初の授業の直前)に20世紀最大の彫刻家と言われた、ヘンリー・ムーアのアトリエを訪問した際のお話をされ、(合計3回の訪問。この時が最後の訪問。)
「人間として非常に深い愛を感じた。」
と、病床に背広とネクタイ姿で、温かく迎え入れてくれた巨匠の人格を称えられました。(ヘンリー・ムーアはその年に88歳で亡くなっています。)
この時のお話で、私にとっての彫刻家というもののイメージが、大きく広がったのを覚えています。
彫刻というものが、ただ物を作るというのではなく、全人格的な営みであることを教えてくださり、困難な道であることを示しながら、大きな夢や希望も与えてくださったわけです。
(財布のことなども)今振り返ると、かなり考え抜かれたお話だったのではないでしょうか。
佐藤先生の彫刻科での授業
名誉教授になられた先生は、クラスの運営を教授の先生方に任せ、確か、、ひと月か二つ月に一度ほど、授業に顔を出されて指導をされていました。
クラスメートの間で、「今日は佐藤先生が来ているぞ」といった噂が、ざわざわと、そこかしこに流れていきます。
何となくそわそわしながら、自分の粘土に向かい合っていると、突然ドアが開いて、佐藤先生を先頭に、ぞろぞろと、教授陣が入ってくる。一気に緊張が教室全体を包みました。
佐藤先生は、黙って全体に目を凝らし、そして一人一人に話しかけていかれます。
だんだん先生が近づいてきて、いよいよ自分の番か、というときには、それだけでうれしいやらドキドキするやら、何とも言えない気持ちになったものです。

”人物クローズアップ” 「佐藤忠良 日本的彫刻に燃えて半世紀」の記事。
白いトレーナーにジーンズの学生は、私Senriです。
これは私に限らず、ほかの学生にとってもそうだったに違いありません。
さていよいよ、私のところに先生がやってきました。先生は、作業中の裸婦像を見るなり、ちょっと苦笑しながら、ほかの先生方を振り返ってこう言いました。
「こいつは天才だからなー。」
その時の私の作品は、胸と脛のあたりから芯棒が飛び出していたし、粘土は乾き、ひびが入って今にも崩れ落ちそうになっていました。
こういう現象は、制作者が冷静さを欠いて、どんどん前のめりになった時によくある事です。当時の私の仕事はいつもこんな感じでした。
ともかく緊張のあまり、話しかけられた教授が、どんな反応をしていたかも目に入りません。
それから、先生は、「小さなところが大事なんだよ。」と言われて、裸婦像のくるぶしあたりを、ぐっぐっ、と押して、次の学生に向かわれました。
あれから40年近くがたちます。
しかし、この時の先生の、「こいつは天才だからなー。」と「小さなところが大事なんだよ。」という言葉がいまだに忘れられません。
確かに、「こいつは天才だからなー」と先生が言われたときは苦笑交じりで、冗談ともとれるものです。
しかし、それを聞いた学生がどう感じるかを、考えないでものを言われる先生ではないということは、何となく直感で分かったものでした。
佐藤忠良の彫刻について
佐藤忠良は生涯、粘土による人体表現を追求した彫刻家でした。
自然に対して謙虚な姿勢
いわゆる具象彫刻家としての佐藤先生は、彫刻の上に表されるべき美を、徹底して自然の中に求める姿勢を貫かれます。
例えば抽象作品などでは、作品に表される美を、自身の内面に求めるあり方もあるでしょう。
しかし先生はどこまでも謙虚に自然に相対する、あるいは対決することによってその奥深さに迫っていかれます。
具象彫刻といえども、空間にモノが存在するために抽象的な解釈は必要になります。つまり大きな塊、人体で言えば、頭、胴体、両の手足を合わせて大きく6つの要素の構成からなり、それぞれに細部が存在しています。
これらの塊と細部が調和して、一つの全体の美を作り出すのが人体彫刻と言えます。
しかし、制作においては観念的な操作に陥らず、自然という妙なる規範に、どこまでも自分をさらしていく姿勢そのものが、佐藤先生の作品の美の秘密なのでしょう。
ところがこのような姿勢は強い内省なくしてできることではないでしょう。
その作品や自然との向き合い方を、先生は「恥をかく」とおっしゃっているのだと思います。
群馬の人
それではここから実際にいくつかの作品を見ていきましょう。
「群馬の人」(1952年作 ブロンズ)は西洋彫刻の影響を脱し、「日本人の手で初めて日本人の顔を作った」と評された作品です。
庶民の姿を作りたいとリアリズムを志したものの、「ジャガイモのような顔」を発表するのを躊躇したといいます。
モデルは、群馬県出身の詩人で教師だった岡本喬。
佐藤忠良と「群馬の人」の縁はほかにもあり、13歳の時からともに自炊生活をした、北大生の「岩瀬さん」は、幼い時に亡くした父親代わりとして、自身を育んでくれたと振り返っています。

常盤の大工
1956年に制作された、「常盤の大工」(セメント)は「群馬の人」と同じく初期のリアリズム作品の傑作です。
「佐藤のきたなづくり」と評される一群の作品の一つで、理想美ではなく市井の人々のありのままの姿に向き合い、表現したいとの想いがありました。
このころの作品には、「這いずり回って生きている人間の切なさを抉り出して見せてくれた」(作家談)ロダンのヒューマニズムの影響が見られます。
シベリアで抑留生活を共にした大勢の男たちの中で、地位も名誉もない「ただの人」が一番「付き合って行けそうだ」と思えた体験から、これらの作品につながっていったとも述懐しています。

帽子・夏
「帽子・夏」(1972年作 ブロンズ)
佐藤忠良の代表作としてよく知られる作品です。
60歳のころの作で、円熟がなお瑞々しさを求めてやまない、清新なエネルギーを感じさせる傑作です。
やや前かがみの自然体でいて、つま先を地面に突き立てる姿は、優美の中に軽やかな緊張を宿しています。
柔らかな粘土の息遣いが伝わってくる素材感には、忍耐と遠来なインスピレーションを感じます。
現代の帽子やジーンズをモチーフとして使いながら、古来より続く日本の彫刻の伝統を継承しています。

佐藤忠良は、正当なプロセスを経るならば、他人の作品に影響を受けることを、大いに良しとしたと言います。
1950年代以降にはマリノ・マリー、ジャコモ・マンズー、エミリオ・グレコといった、イタリア現代具象彫刻が大きな指針になりました。
その根底として、空間としての彫刻、量や動勢への関心が、作品の傾向に現れていきます。
ボタン
「ボタン」(1967~69年 ブロンズ)
イタリア彫刻の影響を受けた躍動感あふれる作品群の一角で、着衣の彫刻が作られるようになります。
ジャコモ・マンズーの「枢機卿シリーズ」の影響があったと作家は語っています。
彫刻の動勢は抑制され、その代わりに、マントの量塊の静かなリズムに感情の流れを任せます。
脇をしめて手元を見つめ、ボタンを留めるささやかなしぐさは祈りにも似て、かけがえのない時の流れの中の一瞬を、見事に表しています。

佐藤忠良の美術教育について
佐藤先生の美術教育には、理論を弄ぶようなところは微塵もありません。
ご自身の人生経験や、彫刻の仕事を通して得た、知見を率直に語っていかれます。
対象にぶつかることによってはじめて知る
美というものがどういうものか、ものを触ることによって何を感じ取れるのか、あくまで現実とかかわり、失敗を繰り返す中で身に着けていくものであることを教えられています。
美術の制作を全人格的な行為ととらえ、対象に体一つでぶつかっていくことによって人格上の気づきを得る、ということを自ら体現し、それを自然に人にも勧められているように見受けられます。
おおきなかぶ
佐藤忠良は絵本の挿絵もたくさん手掛けています。
その中で大変有名なのは、「おおきなかぶ」でしょう。
おじいさんが、”おおきなかぶ”を精いっぱいの力で引き抜くくしぐさを、アトリエの鏡に物を引っ張る自分の姿を映して研究したと言います。

佐藤忠良の言葉 著書の中から
著書の中から佐藤先生の言葉をいくつか紹介してみましょう。
「若き芸術家たちへ ~ねがいは「普通」~ 安野光雄との対談集」より
「(レオナルド・)ダ・ビンチでも徒弟制度の中にいました。そこではみんなほとんど同じくらいうまい。でもその中から一人光り輝くようなのが出てくる。昔から、「習い事は枠から入って枠から出よ」と言いますが、そういう中からジワッと出てくるのが個性だと思います。」
「ミケランジェロや、ダビンチの時代も、技術はみんな同じくらい優れているけれども、人間的にうんと秀でた人が残っているんです。」
「今の若者は体を使ってないと思いますよ。私たち彫刻家がやっているのは、粘土をこねて、恥をかいて、汗をかいて、失敗して、やり直す、職人の仕事なんです。話が飛びますが、恋愛も同じですよ。恥かいて汗かいてやり直す。切ない思いをしないと。抱き合うまで時間をかけないとね。」
「木は自然と戦っていながらずるさがない。根っこはどんなに切ない思いをして石を抱えて、上を支えているか、それを視ろということなんです。」
「歌でもなんでも、どんなに素晴らしくても、気品がないとだめだと思う。気配りの無い芸術は嘘だ、と私はいつも思います。」
「我々美術家は、彫刻でもなんでも、素描、デッサンに力量がすべて出てしまいます。」
「ほかの世界でもそうですが、美術の世界でもこの頃、今おっしゃった、「自分の目で見ているか」が問題になっています。というのも情報で物を見ている、彫刻家や画家が多くなっているんです。若い人でも、批評などを読んで「あ、この手で行けばいいんだ。」と、あの手この手を覚えてしまう。」
「シベリア抑留時代、捕虜の中には、大学教授や社長、その他体を資本にして働く人たちなど、様々な人たちがいました。でも収容所の中では、みんなただの男になって自分を見せ合っている。そうすると付き合って行けそうだなと思う人たちは、地位も何もないただの人だった。それがいつまでも身に染みていたんでしょうね。特に意識はしていませんでしたが、日本に帰ってから、≪群馬の人」とか≪木曽≫それから≪常盤の大工≫などの作品が生まれました。」
(教科書作りについて) 「程度が高くて難しいという声が上がってきたらしいんです。私はね、わからなくてもいいから、子供たちの物差しを作らなくてはいけないと思った。」
「やはり自分たちの目で触れて、体で触って、物差しを作っていくことがとても大切ですね。」
「触ることから始めよう」 より
耐えて耐えて失敗して、その失敗の上汗をかいてやり直すのが芸術であるし、憧れがあるから芸術ということが嬉しいのです。男と女も同じです。恋愛も人生の中の憧れの闘いなのです。憧れがあまり早く成就してしまうと、悩むことなく早く別れてしまうのではないかという余計な心配をしてしまいます。
ウンチのついたおしめを洗うのが以前は当たり前で、そこに親と子のコミュニケーションがあり、おむつが取れるようになれば、今度は叱ったり、一緒に遊んだりといったコミュニケーションに代わっていくわけです。そういうものが稀薄になったことから、子供が学校でいじめにあったり、怪我をしたりすると、親は学校の責任だと言い、学校は家庭でももう少し何とかしてほしい、というようなズレが出てきたりするものです。
子供の積み木がプラスチックになれば、生まれたときからプラスチックの人生が始まり、それが当たり前といった視覚と触覚をもったまま大人になっていき、偽物の大理石テーブルと本物の大理石のテーブルのくべつがつかなくなってしまっているのではないでしょうか。
芝居には時間があります。しかしそうだからと言って人間の一生を延々とやったのでは日常と全く変わりなく芸術にならない。そこで10時間のものを5時間にし、3時間にし、2時間に形象化しながら強く訴えようとします。~中略~少ない要素の中で感情表出する音楽や、出来るだけおしゃべりを抑制させながら、ひとつのドラマを芝居に匹敵させるだけの空間構成として、一つの像に語らせようとする彫刻の闘いは全く共通しているのではないかと思います。
Senri’sEye
仕事によって鍛えられた深いまなざしは、人間生活のあらゆる事象に及びます。
特に作家の言葉が豊富な著書「触ることから始めよう」ではよくこれだけ言語化できるものだと感嘆するほど、その観察は細やかです。それを先生は「普通」と呼ばれます。このあたり、先生の作品に「品格」が備わる源泉なのでしょう。
佐藤忠良の略歴
1912(明治45) 宮城県黒川郡大和町に生まれる
1918(大正07) 父親の死去、翌年母親の実家の移住先である北海道夕張町に移る
1925(大正14) 旧制札幌第二中学(現・札幌西高等学校)入学
1932(昭和07) 上京し川端画学校にて学ぶ
1934(昭和09) 東京美術学校彫刻科入学
1939(昭和14) 卒業後、本郷新、柳原義達、舟越保武ら七名で新制作派協会彫刻部の 創立に参加
1944(昭和19) 兵役に招集され満州に移る
1948(昭和23) 3年間のシベリア抑留生活より帰還
1954(昭和29) 第1回現代美術展佳作賞受賞
1960(昭和35) 第3回高村光太郎賞受賞
1966(昭和41) 東京造形大学教授に就任
1974(昭和49) 第15回毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞
1975(昭和50) 第6回中原悌二郎賞受賞、第3回長野市立野外彫刻賞受賞
1977(昭和52) 第5回長野市立野外彫刻賞受賞
1981(昭和56) フランス国立ロダン美術館で個展
1986(昭和61) 東京造形大学名誉教授
1989(平成01) 朝日賞受賞
1990(平成02) 宮城県美術館内に佐藤忠良記念館設立
1992(平成04) 第41回河北文化賞受賞
2011(平成23) 老衰のため東京都杉並区の自宅で死去 98歳
佐藤忠良の作品が見れる場所
彫刻家佐藤忠良の作品を見ることが出来る、主な施設を紹介しておきましょう。
宮城県美術館・佐藤忠良記念館
佐川美術館・佐藤忠良館
公益財団法人 泉美術館
神奈川県立近代美術館
彫刻の森美術館
彫刻家佐藤忠良に学ぶこと おわりに
今回は彫刻家佐藤忠良について、お話してきましたが、私にとっては大変骨の折れる作業でした。
佐藤先生もおっしゃっていることですが、誰かについて語るということは、その言葉はそのまま自分に帰ってきてしまいます。
特にものつくりの世界では、「力量」というものは、どうしようもなく残酷で明白なものですから、このような大家のことについて書くときには、自分の非力をいやでも認識しつつ、覚悟をもって稽古をつけてもらう、そんな心持ちになるものです。
その分、改めて多くのことを学ばせていただくことが出来きました。
とくに、学生時代にご指導をいただいた先生について、書かせていただいたことは、大変大事な節目を刻ませてもらった思いがしています。
文中、今の時代は佐藤先生の精神に学ぶべきということを申し上げました。
数十年前、すでに便利さを追求していた社会の中で、人間の身体的な能力がますます劣化していくことを憂いておられた先生が、今のAI時代の趨勢を見てどのように思われるか。
時代遅れと思わずに、一度立ち止まって、先生の作品に触れ、著作をお読みになってみることをお勧めしたいと思います。
本日は最後までお付き合いくださり大変ありがとうございました。












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